SCROLL DOWN
当時、西日本支社にて従事していたが、東北復興に向けた大規模造成工事を行うことになり、その経験値の高さから工事所長に抜擢された。年齢的な不安も抱えながら、当社初めてとなる復興CM事業を、地域の方々を優先に考えマネジメントを行った。
東北支店/土木部UR山田町工事所(当時)
加納 雅彦KANOU MASAHIKO
岩手県山田町から復興CMによる宅地造成工事が発注された際、社内では誰をCMR(コンストラクションマネージャー)として所長にするのかという話がありました。私は、過去に大規模造成工事の経験があったため、CMRに選ばれました。
当時、59歳で体力的不安もありましたが、CM方式というわが社でも初めての試みでしたので役所から指示された物を造るのではなく、自ら交渉して調査・設計し、物を造ってみたいという気持ちが生まれました。復興工事は単なる施工ではなく、住宅を無くした方のため、困っている方々の手助けになる、社会貢献ができると思いました。長年この業界に勤めて、与えられた天命だと感じました。
工事を進めていくために、地域との協力は重要でした。工事で利用するための土地を空けてもらい、仮設道路を造る際にも協力していただきました。また、地域との交流の場もたくさん作りました。津波に流された集会所や公民館の代わりにインフォメーションセンターをつくり、地元の小学生や幼稚園児の作品を展示させていただきました。その他、餅つき大会や神輿の担ぎ手、保育園のクリスマス会などに参加しました。地元住民との触れ合いが、復興への意識を強くしてくれました。
復興CM事業は、全工期延べ労働時間76万時間を無災害で終えることができました。これも工事関係者含め地域とともに一体となり復興へ進めたからだと思います。山田町では、瓦礫処理から始まり、奥村組は多くの工事を行いました。ゼネコンは社会貢献できる職業なのだと、若い職員には誇りをもってほしいです。
私が被災地(山田町)へ赴任してから2週間後、船越公園内の建物内で、大津波で壊れたエレキギターを発見しました。土砂がぎっしり詰まっていたギターを洗浄・修理し、持ち主に返そうと役場に張り紙をして連絡を待っていたところ、本人から連絡があり、返すことができました。このことが山田町の音楽仲間と繋がるきっかけとなり、音楽を通して何かしてみたいと思いました。
当時、山田町はまだ真っ暗でしたが、1軒だけ22時まで明かりがついており、音楽が聞こえてくるところがありました。1階が被災して2階が残ったような場所で、その2階でお酒を飲んだり、歌ったりする場所を提供していました。そこでは被災者がお互い慰め合ったり、励まし合ったりする拠り所になっていました。私はそこで初めて一人で生演奏をしました。
そこに来ていたドラマーと意気投合し、2人で復興第1号となった自動車鈑金工場の落成式を始め、飲食店のオープン、スーパーの朝市など様々な場所やイベント等で演奏してきました。演奏活動をしながら、少しでも地元の方々に喜んでもらえたこと、自分達も楽しみながら演奏できたこと、そして何よりもパワーと元気を貰うことができました。
はじめは、壊れたギターを修理しただけでしたが、それが音楽活動に繋がり、被災者との絆を深め、少しでも寄り添うことができたのかなと思います。