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特集

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若手インタビュー企画

地元・宮城県気仙沼市で震災を体験したことが、建設業の道に進むきっかけになったという熊谷静花さん。
そこでどんなことを経験し、何を感じたのか。当時、自ら撮影した写真とともに語ってもらいました。

語り手・聞き手
  • 語り手

    熊谷 静花KUMAGAI SIZUKA

    2018年度入社

  • 聞き手

    藤田 情子FUJITA MOTOKO

    2020年度入社

私が建設業を志した理由

いつも通り過ごせなくなった

藤田 熊谷さんは東日本大震災当時、東北にいたと聞いています。

熊谷 はい。宮城県気仙沼市出身で、当時は高校2年生でした。その日は学校が早く終わり、部活の用事で隣町まで行っていました。隣町から地元へ戻ろうと電車を待っている際に駅で被災しました。隣町だったのでどこに避難すればいいのかわからない上、地震で町がすごい状況でした。「どうしよう…」となっていたときにタクシーが通りかかって、「ここにいたら危ない」と言われてタクシーに乗せてもらい高台まで避難しました。状況がつかめませんでしたが、高台の下の方から逃げてきた人たちの話を聞いたら「津波がすぐそこまで来ている」と慌てて避難して来られた様子で、一緒に体育館に避難しました。家に戻ったのは地震があった次の日です。体育館に避難していた人の知り合いに消防の方がいらっしゃって、その方が私の地元まで様子を見に行くというので、車に乗せてもらいその日の夕方に地元へ戻ることができました。

藤田 家族と再会できたのですか?

熊谷 地元の避難所に着いたとき、家族は別の場所に避難しているということだったのですが、知り合いから「とりあえずここにいたら会えるから」と言われそこで1泊しました。家族と再会したのは次の日だったので、震災から2日後です。私を捜しに高校まで行き、私の友人から隣町に向かったと聞いて捜しに行ったそうです。「駅に行った」と聞いて駆けつけたところは瓦礫まみれで、瓦礫の中から私を捜し出そうとしていたそうです。結局見つからず地元に戻ったら、避難所に私がいたので感動の再会をしたという感じでした。両親とも号泣して「よかったよかった」となり、特に父親の涙は人生で初めてだったのですごく印象に残っています。避難所生活のあとは、母親の弟が持つ家が空き家になっていたので、家族で借りて2、3年はそこに住みました。しかし、電気も水道もガスも復旧しておらず、しばらくはろうそく生活でした。近所に給水場所があり、タンクを持っていって給水していました。避難した家は内陸だったので周囲はなんともなかったのですが、元々住んでいた家は沿岸部だったので津波の被害がありました。その周辺はガレキの山で何がどこにあったのかわからず、建物は全部壊れていました。

藤田 学校にはいつ頃から通えたのでしょうか?

熊谷 高校3年生に上がって夏くらいから徐々に集まり始めたのですが、被害が尋常じゃない地域の人は来たり、来られなかったりで、全員が集まることはなかなか厳しい状況でした。家が流されたり、家族を亡くした友人もいて、被害に遭った人も遭わなかった人も衝撃が強く、いつも通りで過ごすというのはできなかったです。自分たちができることをしなければならないとボランティアに参加したり、学校生活でも私生活でも少しでもできることをして過ごしていました。

いつも通り過ごせなくなった
次は自分が助ける側に

次は自分が助ける側に

藤田 進路を決める時期だったと思います。どのような道に進もうと考えていたのですか?

熊谷 将来どんな仕事に就くかイメージがわかず悩んでいるときに、震災に遭って。町が一変して瓦礫まみれになり、復旧復興の一環で重機が動いている光景を見る機会が多くありました。当時は見たこともない、名前もわからない重機が動いて少しずつ町がきれいになっていくのを見て、初めて建設業という仕事を知りました。震災が起きて、町がこのような状況になっているのに自分は何もできないという無力感を抱いていたので、とても印象に残っています。次に同じような震災があれば、今度は自分が助ける側になりたい。そう思い、建設業ならそれができると目指すようになりました。

藤田 震災の経験から建設業に携わろうと思われたのですね。

熊谷 自分も被災者の立場になる前は、自然災害は他人事だったというか、日本や世界のどこかで災害が起きたときに「ああ、大変な状況なんだな」と感じていたのが正直なところです。しかし、いざ被災して、誰にでも起こり得ること、いつどこで誰が災害に遭うかは想定できないなかで私たちは過ごしていることを知りました。過去に起きた災害について知ることは誰にでもできることで、それを記録に残して自分の地域以外の人に伝えていくことは大事だと思います。

記録を残して後世に伝えたい

藤田 これはどのような写真ですか?熊谷さんの家の近所をたまたま通りかかって撮った感じですか?

熊谷 高校3年生のとき、震災後に町の風景を撮ったものです。すべて流されて更地になったところにこの船が乗り上がったようになっています。家からは少し離れていますが内陸で、瓦礫処理が進み道路も通りやすくなったので、町の状況を見に行こうと歩いていたときにこの船があったのです。この大きさの船が打ち上がっていることで、津波の威力に驚かされました。震災後2、3年はこの場所に残っていて、残すか残さないか検討されたそうですが、この船を見ると震災当時を思い出すという意見もあって、今は取り壊されています。

藤田 保存していくことは、被災された方にとってはつらい思い出が残されるかもしれませんね。

熊谷 そうですね、震災があったことを忘れてはいけない一方で、人によってはつらい気持ちがあって、それを見るだけで家族が亡くなったこととか家が被災したことを思い出すので、このようなものを残すというのは難しい判断です。しかし、何かしら記録を残して後世に伝えていくことは大事なことだと思います。

藤田 今後、災害が起きて、結婚していたり子どもがいたりですぐに行けない状況になった場合、何かしたいけど動けない。熊谷さんならどうされますか?

熊谷 実際に行って声を聞くことが一番ですが、状況によってはできないかもしれません。しかし、「何もしない」はしたくない。会社がICTに力を入れているので、遠隔で被災地に行った人の情報をもらったり、復旧復興活動に携わっていきたいです。藤田さんはどうですか?

藤田 このプロジェクトを通して被災地に行き、地元の方の声も聞いて、復旧復興活動に携わりたいという気持ちが強くなりました。東日本大震災以降、奥村組が10年間活動していることを知り、今後も若手だからこそできることを話し合っていきたいし、相談できる環境をつくっていきたいと思いますのでこれからもよろしくお願いします。

熊谷 こちらこそよろしくお願いします。

記録を残して後世に伝えたい