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東日本大震災が発生した日から10年以上が過ぎました。
「あの日」「あの時」を被災地と共に歩んだ奥村組の社員は何を想い、どう行動してきたのでしょうか。
「復興」に携わった方々に、この10年について、そしてこれからの未来へ願うことを語ってもらいました。
※座談会開催日:2022年3月1日
東日本大震災から10年以上が経った。震災直後から被災地へ赴き、被災者とともに避難所で生活しながら復旧支援にあたった職員もいた。そのような記憶も時間の経過とともに薄れてきていると感じる。自然災害が全国で多発している今、東日本大震災直後からの復旧・復興に向けた当社のさまざまな取り組みを記録として残し、後世に伝承していくことが、今後発生が予見されている大規模災害が起きたときに役立つのではないかと思う。民間企業が発災直後の災害緊急対応に前向きに取り組むには勇気がいる。お金がもらえるのかどうかわからないからだ。しかし、採算性ばかり考えていては災害緊急対応には踏み出せない。建設業として、災害対応は社会的使命であることを平時に考えておく必要がある。今日は発災直後から被災地に赴き、まさに寝食を忘れて震災対応に活躍してくれた皆さんにお集まりいただいた。それぞれの胸の中にしまい込んである記憶を呼び起こし、お聞かせいただいた話を記録として残し、当社の財産としたい。
発災時、東北支店(宮城県仙台市)で土木部会に参加していました。激しい揺れが3分間続き、会議室では、机の下に潜ってもその机が飛んでしまうような状況でした。屋外の駐車場に一旦避難した際に、名古屋に出張中の水野さんから電話があり、「えらいことになった。災害対応への覚悟を決めないといけないな」と雪が降るなか、凍えながらやり取りをしました。
その頃大阪にいた赤星さんはどうでしたか?
現地の情報が入ってこないなか、さまざまな事態を想定して、何を準備するべきかを西日本支社内で検討していました。
東日本支社では、緊急時には水野さんが指揮を執り、水野さんがいなければ私が、私がいなければ古市さんが代理となることを予め決めていて、3人のうち1人は必ず東日本支社にいることにしていました。発災時、水野さんは名古屋、私は東北にいましたので、東日本支社にいた古市さんが指揮を執り、初動対応として、
を進めました。
東北支店では、初動対応として何をしましたか?
まず職員とそのご家族の安否確認を行いました。安否のわからないご家族もいたので、車で家まで行った記憶があります。それから各現場の被災状況の確認を行いました。当日夜には東北支店のすべての現場で大きな被害がないことを確認しました。田村さんはバイクで東京から直接現地に行って確認してくれました。その後、そのまま女川町で災害対応をしてくれました。
新幹線は止まっていましたが、なりふり構わずとにかく被災地に行かなくてはと思いまして。
東北支店の職員のため、東日本支社から救援物資を2便輸送したが、門田さんが北陸からも1便輸送したと記憶している。
物資輸送の依頼があったので、富山から新潟、山形を経由して運びました。
その後、東北の顧客からも燃料が足りないという声が届いたため、東北支店へ救援物資の定期便を輸送する道中で顧客に燃料を届けた。東洋炭素様の工場は福島にあって、原発事故による影響が懸念されたが、危険を顧みずに支援を行った。だから今でも東洋炭素様とは良好な関係が続いていると思う。
発災後、病院などの民間顧客や官庁へ向かいました。とにかく遠慮して対応するのはまずい。積極的に行こう。行けば嫌がられることはないからというような姿勢で行動しました。
女川町では、震災前から工事を行っている縁もあり、震災直後に町長から相談を受けた。やらなければならないことはたくさんあったが、まずは早急に瓦礫の片付けをしてほしいとのことであった。
太平洋沿岸域で工事実績のある市町村はたくさんあり、当社としては、そのすべての市町村を手助けしたかったのですが人員に限りがあるため、女川町、陸前高田市、山田町などに対象を絞りました。
山中さんはいつ被災地に行きましたか?
「誰か被災地に行ける人はいないか」と言われたため、名乗り出て加藤さん(現 札幌支店土木部長)と一緒に14日に仙台に向かいました。2日程仙台に滞在し、女川町を経由して17日の夕方に山田町に入りました。津波に飲まれ、瓦礫の山となった光景はあまりにも悲惨な状況でした。
被災地に入って、その当時はご遺体もあったでしょう?
当時は、瓦礫撤去というより道路の両脇に瓦礫を寄せる作業をしていました。その作業を行っているときに崩壊した家の屋根の下敷きになったご遺体を発見し、改めてこの災害の残酷さを痛感しました。
当社はいち早く被災地に向かい、自衛隊とともに道路啓開を行ったが、請負契約を交わしていなかった。当然ながら本社には収支を気にする人間もいた。
念のため、日報に人員と機械の数を記録し把握していました。作業開始して1ヵ月後くらいに役所の方から「最初の2週間はボランティアでやっていただきたいが、それ以降はお金を出しますよ」と言われた。
建設業としての社会的使命を果たすべく、時には契約が無くても必要な行動をとることが大事だよ。
私は、水野さんが言った「赤字を出しても会社が潰れることはない。契約が無くてもいいから積極的に前へ進め。」という言葉が印象に残っています。そのような判断があったからこそ、奥村組が大きく復旧・復興に貢献することができたのだと思います。
被災地の状況を京都大学、東北大学、岩手大学の教授の方々と視察し、災害廃棄物を処理するだけでなく、その後の街づくりも一貫して担うことで「復興」にしっかりと貢献することができるのだと改めて気付かされ、2011年7月に復興プロジェクト室という組織を盛岡で立ち上げました。
復興プロジェクト室を仙台に設置することも考えたが、多くの他社が拠点を構えていたので、手が足りている所ではなく、手が足りず困っている人々がいる所に行く必要があると考えた。そのようななか、施工を通じて深い関わりのある山田町へのアクセスも勘案し盛岡に設置することにした。
復興プロジェクト室が立ち上がり、埜本さんは営業から技術提案まであらゆることをすべて実施しようと動いていましたね。
当初、盛岡の復興プロジェクト室は私を含めて4名しかおらず、分業できるマンパワーはありませんでした。そのため、営業をはじめ、積算、施工支援、さらには技術開発などすべてをやらないといけなかった。
発災翌日の3月12日に、社長が「災害時は、とにかく現地に行きなさい。走りながら考えなさい。」と言われた言葉が忘れられません。「考えるより先に行動すること」が大切であることを職員に、特に若手に引き継いでいかなければならないと思います。
一人ひとりが責任を持って取り組んだことが大きい。被災地の復旧・復興に対する使命感が全社的に醸成されており、皆が同じ方向を向いて取り組んでくれた。きっかけは、社長が指揮を執り、社員の歯車を回したことだ。しかし、この小さな回転を大きなものにしたのは、職員皆が汗水たらし、涙も流しながらやってくれたから。そういうことは忘れないようにしたいね。