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震災直後、東北支店では備蓄がなく、既に食料不足の状況でした。2011年3月12日の午前の東日本支社での会議にて、食料品調達および東北支店への運搬が計画されました。最初の救援物資は3便に分け東北支店へ送られました。
3月12日夕方に東日本支社から救援物資を2便に分け、運送ルートは太平洋回りと日本海回りをそれぞれ1便ずつ出し、太平洋回りは翌日13日朝8時頃に到着し、日本海回りは12日の夜に到着しました。
北陸支店(富山県)からの救援物資は、東日本支社からの2便よりも早く、12日の夜に東北支店に到着しました。その後、14日には物流ルートが確立され、恒常的な救援物資の輸送が可能となりました。
当時、神奈川県内工事の工事所長ではあったが、本人の人柄や地域貢献への思いから現地への訪問を決意。当人の衣食住の保証もない中で現地へ赴き、瓦礫処理などの初動対応に従事。現地の被災者と衣食を共にし、様々な思いを感じた。
東京土木第1部東電江田工事所/所長(当時)
山中 龍治YAMANAKA RYUJI
山田町では、はじめに道路啓開を依頼され、その後は瓦礫撤去作業を行いました。撤去作業にあたり、行方不明者のご遺体が見つかった場合はその場で作業を中止し、警察に連絡し検視作業が終わるまで待機するということが何回かありました。
当時、社内で東北支店への応援を募集しており、担当工事も完了し時間的余裕があった私は、「何か手伝いでもできるだろう」と思い、復旧支援に従事することにしました。3月14日、本社が準備していた数台の車両に燃料・非常用食料等を積み込み東北支店へ向かいました。
岩手県山田町で復旧支援に従事しました。山田町役場の方の計らいで避難所で寝泊まりさせていただき、2週間程度被災者の方々と寝起きを共にしました。避難所には家族を失った人、家を失った人、様々な境遇の人がいました。さみしく悲しく、暗く沈み、怖く重たい空気が漂っていました。
日が経つにつれて、被災者の方たちと少しずつお話をするようになり、被災者の辛い気持ちを聞くことで、少しでも心の重しを取れたらいいと思いました。避難所生活が数日過ぎた頃、被災者の方と酒類を集め皆で飲むことになりました。重苦しい雰囲気の中、大したつまみも無かったのですが、少し緊張がほぐれ酔った気がしました。