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第1章 あの日を想う

第1章 あの日を想う

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救援物資を現地へ

生きる糧を運ぶ

発災直後の不安と混乱、被害が広域かつ大規模に及んだ東日本大震災では、避難者が多く、被災者向けの救援物資の量も過去に例をみない莫大なものとなりました。
物資不足に陥った東日本各地では、救援物資の輸送と確保が被災者にとって明日を生きる糧となります。

急がれる対応・変化するニーズ

東日本大震災により、道路、鉄道、港湾などの公共インフラや水道、ガス、電気、通信などのライフラインが壊滅的な被害を受けました。道路は各所で寸断や陥没が見られ、停電で街灯や信号は消え、車両通行が困難な状況にあり、電話が繋がりにくく、東北支店との連絡が満足にできる状態ではありませんでした。

震災直後、固定電話が通じたため、東北支店は東日本支社へ連絡を取り、救援物資の要請を行いました。要請を受けた東日本支社は、食料、水、衣類等の緊急必需品と発電機や燃料を東北支店へ送り、その後も定期便で送り続けました。被災地での炊き出し状況東北支店に救援物資が到着 救援物資は東北支店のみならず、東北支店の顧客・施主や避難所に身を寄せておられた方々にも届けられました。当初は、食料等の緊急必需品を輸送していましたが、時間経過に伴い、救援物資のニーズは変化していきました。例えば、被災地での機動力の確保のため、自動車が欲しいと声があり、北海道から手配しました。

被災地での炊き出し状況
被災地での炊き出し状況

全国から物資を

被災地へ近づくほど、コンビニやスーパーの品薄状態は激しくなり、現地付近での救援物資の確保は困難でした。
定期便を出すようになってから、西日本支社や九州支店など、本社をはじめ全国の支社店の協力の元、物資を集めて東北へ届けました。

震災直後、東北地方内スーパーの様子
震災直後、東北地方内スーパーの様子

顧客への救援物資

救援物資の第1陣は、東北支店の社員のための物資補給でしたが、発災1週間を経過した頃、病院などの顧客から物資が足りないとの声があり、燃料等の救援物資を届けました。福島県への物資輸送は、原子力発電所事故による放射能の影響もあり、運搬者を手配するのに苦労しました。当時救援物資を輸送した顧客とは今でもお付き合いがあります。

救援物資を届けに行く最中に見た被災地の様子①
救援物資を届けに行く最中に見た被災地の様子①

許可証は必要か

被災地では野次馬や盗人も現れる可能性があることから、被災地の中心に入るのに許可証が必要になる場合があります。阪神淡路大震災や新潟中越沖地震の時にも同様の経験がありました。東日本大震災時の第1陣は許可証なしで現地に入れましたが、第2便からは許可証を警察署で発行し、車に乗せて現地へ行きました。

救援物資を届けに行く最中に見た被災地の様子②
救援物資を届けに行く最中に見た被災地の様子②

救援物資を現地へ

震災直後、東北支店では備蓄がなく、既に食料不足の状況でした。2011年3月12日の午前の東日本支社での会議にて、食料品調達および東北支店への運搬が計画されました。最初の救援物資は3便に分け東北支店へ送られました。

3月12日夕方に東日本支社から救援物資を2便に分け、運送ルートは太平洋回りと日本海回りをそれぞれ1便ずつ出し、太平洋回りは翌日13日朝8時頃に到着し、日本海回りは12日の夜に到着しました。

北陸支店(富山県)からの救援物資は、東日本支社からの2便よりも早く、12日の夜に東北支店に到着しました。その後、14日には物流ルートが確立され、恒常的な救援物資の輸送が可能となりました。

門田 克司
門田 克司
四十八坂荘

四十八坂荘

発災後、被災地の山田町できめ細やかな支援活動を実施する際に拠点となる場所が必要になりました。
被災地周辺には寝泊まりできる場所がないため、盛岡など比較的被害の少ない地域で宿を探し、長時間をかけて被災地との間を往復することが一般的でした。

しかし安藤所長は、被災前から営業をしていなかった、山田町の民宿「四十八坂荘」に食事と寝床の提供をお願いしたのです。四十八坂荘は「被害が大きくて何もできない、ライフラインが復旧してから」と最初は断られました。震災対応を急ぐ必要があり、ライフラインの復旧を待つことはできなかったので、発電機を用意し、足場を作り、自由落下でタンクから水が出るように設備を整えました。

水や食料をすべて用意したことで、最終的に四十八坂荘で食事と寝床を確保することができました。「宿を自ら作る」という発想が、毎日の長距離移動を無くし、迅速に災害復旧活動に注力できるようになったのです。
四十八坂荘は、現在も、民宿として営業しています。

安藤 健一/盛岡営業所 営業所長

インタビュー動画

避難所での心の明かり

避難所での心の明かり

当時、神奈川県内工事の工事所長ではあったが、本人の人柄や地域貢献への思いから現地への訪問を決意。当人の衣食住の保証もない中で現地へ赴き、瓦礫処理などの初動対応に従事。現地の被災者と衣食を共にし、様々な思いを感じた。

東京土木第1部東電江田工事所/所長(当時)

山中 龍治YAMANAKA RYUJI

山田町の復興支援、瓦礫撤去中に…

山田町では、はじめに道路啓開を依頼され、その後は瓦礫撤去作業を行いました。撤去作業にあたり、行方不明者のご遺体が見つかった場合はその場で作業を中止し、警察に連絡し検視作業が終わるまで待機するということが何回かありました。

復旧支援の力になりたい東北支援に参加

当時、社内で東北支店への応援を募集しており、担当工事も完了し時間的余裕があった私は、「何か手伝いでもできるだろう」と思い、復旧支援に従事することにしました。3月14日、本社が準備していた数台の車両に燃料・非常用食料等を積み込み東北支店へ向かいました。

2週間、寝起きを共に

岩手県山田町で復旧支援に従事しました。山田町役場の方の計らいで避難所で寝泊まりさせていただき、2週間程度被災者の方々と寝起きを共にしました。避難所には家族を失った人、家を失った人、様々な境遇の人がいました。さみしく悲しく、暗く沈み、怖く重たい空気が漂っていました。

緊張をほぐした酒席

日が経つにつれて、被災者の方たちと少しずつお話をするようになり、被災者の辛い気持ちを聞くことで、少しでも心の重しを取れたらいいと思いました。避難所生活が数日過ぎた頃、被災者の方と酒類を集め皆で飲むことになりました。重苦しい雰囲気の中、大したつまみも無かったのですが、少し緊張がほぐれ酔った気がしました。