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発災後、何よりも先に行ったのは、安否確認でした。
社員およびその家族の安否確認は自社開発の『災害情報第一報システム』を利用し迅速に確認が済みましたが、現場の状況確認については翌朝まで時間を要しました。東北地方を含めた東日本全域では公共交通期間の機能が停止し、各所で帰宅困難者が発生しました。
どこの宿泊施設も帰宅困難者があふれ、関東圏内にいた当社職員も各地の避難所で過ごしたこともありました。
翌日には、新幹線や都心での鉄道の一部は復旧し、全国的な支援活動が開始されました。帰宅困難者の発生に伴い、コンビニやス―パーの食料品は品薄状態となりました。
当時、東日本支社では440人×3日間分の食料が備蓄されており、帰宅困難者となった社員に配布され、現在でも同等量を備蓄しております。
当時、東日本支社土木事業部門の要である土木工務部長として、震災当日に東北支店に出張。仙台市内で被災し、帰宅困難・関係者との音信不通となるも、初動対応に向けた救援物資の物流ルート確保のため奔走。震災直後に西日本支社への異動を控えていたが、現地の自治体対応で各地へ訪問を重ねた。
東日本支社/土木工務 部長(当時)
岡田 章OKADA AKIRA
2011年3月11日14時46分、部会に参加するため、東北支店を訪れていました。部会参加直後に地震が発生し、東北支店が崩壊してしまうのではないかと思うほど強い揺れを感じました。携帯電話は通じませんでしたが固定電話は通じ、東日本支社と連絡をとって状況を伝え、救援物資の依頼をしました。その後、東北支店の職員、その家族、お客さんの安否確認を行い、私を含めた帰宅困難者は支店の応接室や椅子で一夜を明かしました。
翌々日、一度東京へ戻り、必要なものをオーダーして東北へ送る物流ルートをつくりました。数日後、再び東北へ戻りました。奥村組は三陸沿岸の管路を含めた上下水道施設の工事実績が多く、被災した各自治体から応急復旧の問合せが相次ぎました。これを受けて、当時東北支店の荻野部長と各自治体を訪ねてまわりました。女川町、陸前高田市、山田町、野田町など、大きい地域には職員を配置してそれぞれの状況を把握しました。各地域に日用品などの必需品を手配し、各避難所に届けました。
私は、2011年2月の時点で西日本支社に異動が決まっていました。東日本支社に残り、復興業務に携わりたかったが、後ろ髪をひかれる思いでゴールデンウィーク前には異動することになりました。西日本支社に異動後も東北の様子がずっと気になっていました。
復興活動の経験から、被災直後は利害を抜きにして、社会や被災した人達のためにどうするのかを優先して考えるべきだと思います。それは建設会社として公共工事に携わってきた人の使命だと思います。そのように考え行動した結果、行政や住民の方々からも感謝されました。地域に貢献すること、地域の人と良好な関係を築くことが建設業に携わっている人間の本懐ではないかと考えます。